PROFILE:そうる透
1958年神奈川県横浜市生まれ。5歳で音楽隊に入隊。12歳でプロデビューをはたし、15歳からスタジオワークを開始。その後、ジャンルを問わず、徳永英明、氷室京介、小泉今日子、B’z、Do As Infinityなど、さまざまなミュージシャンのライブ、レコーディングなどに参加。これまでに残した音源は数千にも及ぶ、日本を代表するドラマーのひとり。また、ドラマーとしてのみならず、プロデュース活動や雑誌への連載執筆などの幅広い分野で活躍。現在では03(ゼロサン)としても活動中で、今年1月1日に1st.アルバム『03』をリリースしている。

今回のインタビューはそうる透さんの登場です。プロのドラマーとして長く第一線で活躍されてきたそうるさん。今回はその経歴を語っていただき、ドラマーとして必要なこととはなにかをお聴きしました。また、ローランド新製品のSPD-Sとドラムトリガーを試奏していただいた感想もあわせてお届けします。

まず、5歳で音楽隊に入られてドラムを始められたそうですが、きっかけはどんなものだったんですか?

そうる透(以下S)
:僕、本当はピアニストになりたくて、姉がやっていたピアノを見よう見まねで始めたんです。だけど、僕の幼稚園の先生だったかな、「この子はモノを殴るとか叩くとかさせたらいいんじゃないか」って言ったんですよ。僕はそうかなぁって思ってたんだけど、大太鼓を一発ドーンと叩いた瞬間にあれ? 面白い楽器だなって思ってハマっちゃった。

小学校でもそのまま音楽隊を続けていたんですか?
S) いや、もうジャズに走ってましたね。基本的なことが大体アタマに入っていたし、子供ながらにある程度は腕も動きましたから子供用のドラム・セットでレコードを聴いて合わせて叩くことを覚えちゃったんです。それがもう楽しくって!

小学生でジャズですか? 早いですね(笑)。
S) それは、運が良かったんでしょう。父がジャズのレコードを持っていたんですよ。ロックに関していえば実家の同じ敷地内に叔父の家があって、洋楽にうるさい従兄弟のお姉ちゃんが住んでいて、ロックのレコードをたくさん持っていたのでよく聴かせてもらいました。あとはFENとかも聴いていたし、環境に恵まれていたんですよね。

本格的にドラム・セットを使った練習を始めたのはいつ頃ですか?
S) 7〜8歳くらいの頃に有楽町に日劇っていうのがあって、そこの地下の牛丼屋で叔母が働いていたんですよ。僕がそこに遊びに行ったのが、年に数回やっていたウエスタン・カーニバルっていうグループ・サウンズの大きなショーの日で、僕がブルーコメッツの楽屋まで配達に行ったんです。

ローランドスタッフ(以下R):小学生が配達?叔母さんも凄い人ですね(笑)。
S) ねぇ(笑)。で、楽屋まで牛皿なんかを持って行ったら、楽屋の入り口にいる人が「ショーを観ていいよ」って言ってくれたんです。これはラッキーだなと思って観に行ったんだけど、そのショーでスパイダースを観て感動しちゃった。田辺昭知さんがカッコよくてねぇ。それでドラム・セットを親に買ってもらって本格的に始めたんです。生意気なガキですよ(笑)。その後も叔母のところに何回か遊びに行っていたんですが、お店にいろんな人が出入りするんですよね。当時ニッポン放送の制作部長だったかな? 有海さんという方がいらっしゃって、彼が「アランドーソンやバークレーの教則本なんか基地に行けばいくらでも売ってるよ」って教えてくれたので、買ってきてもらって練習したんです。1日6〜7時間は叩いてましたね。

12歳でプロデビューをされていますが、このきっかけはどのようなものでしたか?
S) 「横須賀とかの基地で演奏するバンドがあるからやってみる?」って言われてたんです。その時はビッグ・バンドで好きなジャズをめいいっぱい叩けてお金ももらえて、こんな楽しい職場はないっ!って思っていましたね。当時は基地以外にもキャバレーやディスコにもバンドが入っていたのでいろんなところで演奏できたんですよ。子供のやることだからと、多少無茶をしても見逃してくれましたしね(笑)。





その後15歳でスタジオワークも始められたんですね。
S) うん、でもその前にポピュラーソング・コンテストのバックをやらせてもらうことになるんですよ。

R)それで恵比寿の某スタジオに行くようになるんですね。
S) そうです。あの頃のあそこは今考えると凄かったですね。学ラン着たCharさんがやって来たり、渡辺貞夫さんが奥でサックス練習していたり。僕はセミプロみたいな感じでポピュラー・ミュージックのサポートをやっていたんですが、やっぱりロックも忘れられないわけですよ。そこで地元の友達のバンドに参加しているうちに、外道というバンドに出会うんです。その外道の加納秀人さんと一緒に活動することでドーンと僕の名前が広がったんです。「コイツまだ15、6歳らしいぜ」って、周囲では有名になりました。

そこからは順調にプロとしての活動を続けてこられたわけですね。
S) いや、しばらくして自分はスタジオ・ミュージシャンとして進むのか、バンドマンとして進むのかで悩むんですよ。僕は別にバンドをやって、スタジオもやったっていいじゃないかって、両方を選んだんですが、そういう転換期にはいつも人に助けられてきて、その時もCharさんと一緒に仕事をやってドラムのことや、ミュージシャンとしての生き方からギャラの請求の仕方まで、いろいろと教えてもらいましたね。

R)いろいろと? ですか?
S) いやぁ、まあいろんなことを……(笑)。それと前後して松原正樹さんってギタリストの方と一緒に仕事をするんですけど、この人にもいろいろ教えてもらいました。Charさんと出会って「一生ドラマーで頑張っていこう」と思い、正樹さんと出会って「スタジオ・ミュージシャンとしてのスタイルを確立させよう」と思ったんです。本当にイイ先輩が周りにたくさんいたんですよね。その後もセンス・オヴ・ワンダーのキーボーディストの難波弘之さんやクロスウインドのギタリストの小川銀次さんと出会って、それでそうる透のドラム・スタイルを確立することができたんですね。なんか僕が影響を受けた人ってギタリストが多いな。あと、26歳の時にALFEEに参加して高見沢さんと坂崎さんと桜井さんに会ったことも僕の転機でしたね。あ、またギタリストだ(笑)。

ドラマー、ギタリストに限らず、影響を受けたアーティストはいらっしゃいますか?
S) 21〜22歳の頃に、僕が世界で一番尊敬しているナラダ・マイケル・ウォルデンというドラマーが来日した時に会わせてもらって、彼の滞在中、ボーヤをやらせてもらったんです。彼には「プロデュースのできるドラマーになりなさい」と言われました。そして今、僕はプロデュースなどもしていますけど、彼にはミュージシャンとしての考え方を教えてもらいましたね。





最近では03(ゼロサン)のドラマーとしてもご活躍されていますが、結成のきっかけはどのようなものでしたか?
S) さっきの話の続きになるんですけど、ナラダ・マイケル・ウォルデンさんが日本に来た時に一緒にベースで来てたのが03のベーシストのT.M.スティーブンスさんだったんですよ。そこで初めて彼に会ったんです。

じゃあ結成以前から面識はあったんですね。
S) そうなんですよ、ただお互いそんなに憶えちゃいませんでしたけどね(笑)。3年前にDo As Infinityってバンドの仕事をさせてもらった時にT.M.さんに再会して、「2人でバンドができたらいいね」って楽屋で話が盛り上がったんですよ。その後、僕がロンドンブーツをプロデュースをした時にギターを頼んだのが秋山智江さんで、「僕とT.M.、秋山でバンドができたら楽しいな」ってエイベックスの人に話したら、制作チームのボスが「ドラムがそうる透でベースがT.M.スティーブンスなんて夢みたいな話ですね」って言ってボーカルを探してくれたんです。それでビデオを観て決めたのが古市絢子だったわけですね。

そうしてメンバーが集まり、03がスタートするんですね。
S) それが、「古市にいつ会えるの?」って聞いたら「すいません、彼女今カナダに留学中なんです」って言われて、会えるまで半年待ったんですよ(笑)。だからデビューまでに1年かかったんですけど、普通ボーカルが留学中だからってそんなに待たないですよね。それでもバンドとしてのひとつひとつの歩みをしっかりやらせてくれたエイベックスに感謝しています。

バンドでも、個人でも今後の活動でやってみたいことなどはありますか?
S) 03は古市が言いたいことを表現するっていう最初のコンセプトから変わりはないんで、そういう風に頑張っていこうと思っています。あと、まだ詳しくは言えないんですけど、T.M.スティーブンスとスティービー・サラスと僕でちょっと面白いことをやる予定なんで、それもよろしくお願いします(笑)。



   
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