今回のインタビューはMC's Eyeの企画と連動し、楽曲制作だけでなくレーベル主宰、プロデュース、選曲と幅広く音楽に携わる皆さんからお話を伺いました。様々な音楽知識と経験を持つ皆さんのお話は、きっと参考にできる部分がたくさんありますよ!


[ 椎名謙介(Emigration Japan)]
1980年よりスタジオ・ドゥーワップ(現クラブ・キングであるモイチ・プロダクションの前身)にてスネークマンショ−等のラジオ番組制作で音楽関係のキャリアをスタート。モイチ・プロダクション時代にはスネークマン・ショー・レコード「急いで口で吸え」 「戦争反対」(アルファ)の制作やクラブ・ピテカントロプス・エレクタスの企画に携わりフリーの選曲家へ。1991年にはWAVEレーベル創設に参加、同レーベル倒産後は再びフリーの音楽制作者として日本国内にて活動、1995年より英国のレーベルPUSSYFOOT他で、楽曲製作からリミックスやアート・ワークまで様々な活動を行なっている。

[ 永山 学(Emigration Japan)]
1987年ファッション・ショーの企画・演出を手掛ける(株)サル・インターナショナルに入社、選曲を担当。ラジオ番組の選曲なども手掛けながら、音源制作にも進出、91年NYのDJ PAL JOEY と12inch EP"I GOT THE RHYTHM"、さらにNYと東京のコラポレーション・アルバム"LA RONDE"を制作。92年に独立し(有)ユニヴァーサル・エイブを設立。森俊彦(現SP1200)と結成したJAZZZDELICでFAT JAZZY GROOVES、FAR EAST DANCE MUSIC、GIANT STEPなどに参加。94 年には自主制作コンピレーション"Listen Up!"を制作、数多くのプロデュース、リミックス作品を手掛けている。

[ 安田寿之 ]
1973年生まれ。兵庫県宝塚市出身。小学生をカーペンターズと冨田勲、中学生をMTVで過ごす。1980年代後半の高校時代にフュージョンバンドにおいてキーボードを担当したことから音楽理論に興味を持ち、独学で作曲、アレンジを始める。立命館大学理工学部在学時の1994年、同級生の紹介で田中知之と会い、Fantastic Plastic Machineを始める、Pizzicato Five、Combustible Edison等、多数プロジェクトを手掛けた後、1997年のF.P.M.のデビューアルバムを最後に脱退。
 その後、自らのアーチスト活動として企画CDやコンピレーションに参加するとともに、他のアーチストへの楽曲提供、プロデュース、CM音楽制作を行う。
 2000年7月、「ロボットがブラジル音楽を歌う」というコンセプトのファーストソロアルバム'Robo*Brazileira'(Emigration Japan emig-2002)をEmigration Japanよりリリース。最近は、Tei Towaとのコラボレーションで中島美嘉、Bonnie Pink、キリンジ等の制作にあたる。

[ Emigration Japan ]
97年、椎名謙介と永山 学によって設立されたレーベル。自身の作品のみならずスピリチュアリティをテーマに、純粋にいい音楽、聴かせたいと思った音楽を数多くリリース。インドネシアの音楽から、国内のDJ・作曲家など、多彩なアーティストを紹介している。


音楽関係の仕事に就いたきっかけは?
永山
(以下N)
まず音楽が好きだったからですね。今から18年くらい前かな、当時『Rock it』が流行っていて、スクラッチの音を初めて聴いて衝撃を受けて、ターン・テーブルでレコードを回していたんです。そこで知り合いに紹介されて(株)サル・インターナショナルに入社したんです。ファッション・ショーの音楽をやりたいという理由じゃなくて、いろんな音楽を会社の経費で聴けるなんて凄く魅力的じゃないかと思ったのが理由でした。
椎名
(以下S)
僕も中学、高校と音楽が好きで、PLASTICSの全盛期だったから毎月ライブに足を運ぶような、今で言う“追っかけ”みたいなことをやっていましたね。中西俊夫、立花ハジメ氏から桑原茂一氏を紹介してもらって、スネークマンショーのラジオの選曲を始めたのが最初です。それも凄く自然な成りゆきでしたね。

では椎名さんと永山さんのおふたりが出会ったきっかけは?
S 僕がやっていたラジオの選曲の仕事がきっかけで、僕がサルに出入りするようになって、そこで知り合いになったんです。
N 当時はDCブランド全盛期で、サルが1ヵ月に30本くらいショーの選曲を手掛けていたんですが、会社では古賀さんという選曲家の人がひとりで仕事をしていたので、椎名さんたちに仕事を手伝ってもらっていたんです。その頃僕はまだ右も左も分からなくて、紙に書かれたレコードを買いに行くような仕事をしていたから、それを見て「すげぇなぁ」って。そこで椎名さんに編集の仕方を教えてもらったんです。
S その頃はオープン・リールでアナログ録音する時代でしたからね。今でもラジオでは使っているかな? 僕はラジオから入っているから専門分野だったんだよね。そこで編集技術を磨きましたね。

今みたいにデジタルの機材がない時代だから、編曲って大変な作業だったんでしょうね。
S ブレイク・ビーツなんかも、つのだ☆ひろのレコードからドラムだけ録音してループを1本作って、ベースを弾いて、ってどんどん重ね録りして作ったりしましたね。
N 1分くらいのクラシックを無理矢理オーバー・ダビングして5分くらいに延ばしたり(笑)。どうやってもそんな曲にはならないだろうっていうような編曲をしてましたよ。でもバレなかった。当時はサンプラーなんてフェアライトが1500万円くらいしていましたから。そんなサンプラー買えないでしょ?
S Emuですら、100万円だったからね。

DJからプロデュースやエンジニアとしての活動もされていますが、レーベル運営の仕事との一番の違いは?
N レーベルに関して言えば、それだけで食っていくわけにはいかないんで、趣味に近いのかな。
S 「職業」っていう言葉で括っちゃうと違うような気もするんですよね。プロデュースとかDJとか、エンジニアに近いことも仕事としてやるんですけど、自分の音楽的な環境で自然な流れでそういうこともやっているだけで……。でもそのすべてが仕事であって、別物だけどひとつの自然な形になっていると思います。

レーベルを立ち上げた経緯を教えてください。
N とにかく仲間内のプロじゃないDJが作った市販されないデモ盤に凄く興味を持ったんです。レコード屋などでもらったデモ盤を集めて、なんとかこれをコンピレーションにして世に出したいなと。そこでプログラマーなどの技術者の人や興味を持った人と接して話を聴いたり、独学で勉強してレーベルを立ち上げる準備をしていきました。

もし、レーベルを立ち上げるとしたらどういう準備が必要なんですか?
S まず人に聴かせたい音楽があること。それから実際に経済的出費があるから、その音楽にどれだけ肩入れができるかっていう気概(笑)。たとえ失敗してもそこでめげちゃわないことですね。

無名だったDJ等の作品を集めてコンピレーションを出したりという足掛かりはどうやって広げていくのですか?
N 今はもうあまりやらないですけど、とにかくレコード屋に足を運んで情報を交換したり、興味を持った人に会いに行ったりしていましたね。そうやってレコードを出したら、今度は逆に向こうから連絡がくるようになりました。とにかく人にたくさん会って人脈を広げていけばいいと思います。



 

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